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カルタにわくわく

 今年のカルタの試合が終わった。
 一週間ほど前から私は調子がよくなかった。調子がなぜかのらない、という感じでうまく集中できないのだった。
 こういうことは初めてで、認知症の母のことが思い浮かび、年をとると、こんなふうになるのだなあ、と驚きと諦めがいりまじったような気持ちになった。
 鋼のように研ぎ澄まされた心と体、という感覚を、カルタの時はいつも味わう。自分のようで自分で無いような真っ白になっているような感覚で、それを感じたくてカルタをやっているようなものだった。
 だから負けるときでも、これ以上は無理だったと心底納得できた。
 
 それが身心に脂肪がついたようなユルさがとれず、練習の時にカルタに向かいながら、自分が一枚もとれないのではないか、というような不安に襲われたりした。
 そしてこわいのは、そういう自分に強い危機感を抱くことがなく、なんとなく自然に受け入れてしまいそうになっていることだった。
 感覚が鈍る、というのはこういうことか、と実感したのだった。
 
 いつもは遅くても一二月半ばには手にするニンテンドーDSを、年が明けてから取り出した。百人一首の早取りのゲームがいい練習になるのだった。それでもあまりやる気が出なかったが、そういう自分はいやだという気持ちはまだあったので、少しずつやることにした。
 
 試合の二日前くらいになるとさすがに焦ってきて、こんなことではだめだな、と意識して集中するようにした。
 ゲームの中では読手の人が上の句を読む声が流れる。
 それをイヤホンで聞きながら、私は子どもの頃を思い出した。
 小学生の頃、地域の子ども会を代表して市の大会に出場していたのだった。私はカルタが大好きな子どもだった。好きで好きでたまらなかった。
 いつも練習に行ってカルタの前に座るとわくわくしたものだった。
 
 カルタは誰かが読んでくれないと取ることができない。だから家では練習できなかった。  
 私はそれでも家のなかで百人一首を触って眺めていた。百枚全部覚えているのに何度も覚え直していた。見ているだけで嬉しかったのだった。
 
 大人になった私はニンテンドーDSから流れる声を聞きながら、なんて贅沢なことだろう、と改めて感動した。
 あの頃には考えられないことだった。
 テープがあっても順番を覚えてしまうのであまり意味がなかった。
 高校生くらいになって初めて、ランダムに読まれるCDが登場したが、私は持っていなかった。もしあの時、ニンテンドーDSがあったとしても、自分で買うことはできなかっただろう。
でもそういうのがあると知ったら、あの頃の私はもの凄く欲しかっただろうな、と思う。
 
 そんなことを考えながら読手の声を聞いていると、キレッキレッの感覚が蘇ってきた。
どの札も大好きで、わくわくする。どの上の句にも興奮できた。
 私は全部の札を取ることだってできるはずだ、という気持ちになって、なんとかこれで試合に臨めるな、と安心した。
 
 相手にも恵まれたが結果は三位で、表彰式では賞状をもらった。
 この成績を励みに、この一年をなんとかがんばろう、と思った。

タグ:百人一首
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