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バウムクーヘンの端っこ

 滋賀県に〝ラ コリーナ近江八幡〟という建物がある。
 「たねや」と「クラブハリエ」のフラッグシップ店で、「自然に学ぶ」をコンセプトにお菓子と自然を楽しむ場所として造られている。
 緑の草に覆われた外観はこのコンセプトを充分に体現している。
 草原の中の小径を通って中に入ると、広い中庭には田んぼがあり、その周りに和菓子や洋菓子のお店とカフェが並んでいる。有名な「クラブハリエ」のバウムクーヘンを作る過程も見学できる。
 他では味わえない焼きたてのバウムクーヘンを食べることもできる。
 お洒落でSNSでも人気があって館内は人であふれている。広い駐車場が完備されていて観光バスもやってくる、という人気の場所である。
 
 わたしはこの「ラ コリーナ近江八幡」へ行ってみたいとずっと思っていた。
 それで昨年の九月に初めて訪れた。
 そして今年の十月に友人ともう一度行った。
 お菓子作りが趣味の彼女は以前からとても行きたがっていたのだった。
 ここで、抱くのは、自分が最先端の場所にいる、という感覚である。
 まず、よくこういう施設を造ったものだな、と感心する。
 発想力、想像力、構築力、技術、などがすべて時代の最先端を感じさせるのだった。
 そして全体を包み込むのは、センスの良さ、というものだと思う。
 時代の最先端が自然との共存を謳っている。何もかもが考えつくされ、よくできている。
 ものすごくセンスのいい人がこれを作って、わたしたちはそれに浸っている、という感じがするのだった。
 気分が高揚するのを止められない。
 
 館内では和菓子や洋菓子に加えてパンや地ビールなど、さまざまなものが販売されている。
 オリジナルグッズや本もある。
 せっかくなので何か買って帰ろうという気になるのは当然である。
 デパートではクラブハリエのバウムクーヘンを買うのに長い行列ができている。
 ここではさまざまな商品が豊富に陳列されていて、自分でカゴに入れてレジに並ぶ。価格は定価である。
 わたしはそのきれいな箱入りのバウムクーヘンが自分用にはもったいないように思えた。
 おみやげを渡す相手も思い浮かばなかった。
 買うものがないなあ、と売り場をぶらぶらと見ていたら、〝バウムクーヘンの端っこ〟が袋入りで売られていた。
 限定品だという。
 なんでもB品というものはあるものだ。
 カステラの切れ端、割れたせんべい、傷のついたリンゴ、そういう規格外のものは味に変わりがないのに商品価値は低いとされている。
 遠方から来た友人は、めったにない機会だからとたくさんのおみやげを買いこんでいた。
 私は自分用に〝バウムクーヘンの端っこ〟を買うことにした。
 
 中庭にある田んぼには稲刈りをした稲が干されていた。
 幼いころに目にしていた昔ながらの光景が最先端のなかにあった。
 ここまでやるんだな、とまた感心した。
 術中にはまっている感覚を持ちながらも、写真を撮ってインスタグラムに投稿した。
 ラ コリーナ近江八幡に行ってきましたよ、と自慢するために。
 

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ぶどうぱん

 パン屋さんに行くとわくわくする。
 パン好きにとって、「パンを選ぶ」というのは楽しい作業で、美味しいという評判を聞けば遠くのお店までわざわざ足をのばしてみたりする。
 子どもの頃は家の近くに専門のパン屋さんはなく、村に一軒だけあった食料品店に少しだけ置いてあるパンを買っていた。
 当時、私は〝サンドウィッチ〟にとても憧れていた。
 ふかふかした薄切りの食パンにハムやチーズやレタスを挟んだ姿はあでやかで、幼い私は食べ物界のお姫様のような高貴なイメージを抱いていたのだった。
 それはテレビや雑誌で見るだけのもので、村のお店では売っていなかった。母に作ってもらったこともなかった。
 高校生くらいになると、ひとりで町のスーパーに行けるようになった。材料を買って自分で作ることもあったけれど、両親はあまりサンドウィッチを好まなかった。それは田舎の文化の外側にある食べ物だったのだ。
 
 大人になり、結婚して街に住むようになると、〝サンドウィッチ〟は身近な食べ物になった。
 私は子どもの頃の欲求を満たす如くそれをよく食べた。パン屋さんに行くと、つい目がいって、買ってしまう。他のパンに比べて高価で贅沢だけれど、それでも気持ちが高揚するのを抑えられなかった。
 そしてサンドウィッチは私の生活に溶け込んだ自然な食べ物となった。
 今ではかつての憧れの度数を超えてしまって、特別感のようなものは抱かなくなってしまった。お財布の事情に合わせて節制することもできるようになった。自分でも作りたいときに作ることができる。
 
 サンドウィッチへの憧憬を乗り越えた私が、昔も今も好きなのがぶどうぱんである。
 ぶどうぱんは村のお店でも売っていたので、子どもの頃からとても身近な食べ物だった。
 サンドウィッチとは違って、友達のような間柄である。
 自分がぶどうぱんを好きなことに気がついたのがいつだったか思い出せないけれど、これについて意見の合う人はあまりいないような気がする。変わった好みかもしれない。
 家族はみんなぶどうぱんが好きではないから、いつも自分の分だけを買っている。家にあると安心するので常備している状態になっている。
 パン屋さんでも買うし、スーパーで売っているパンメーカーのものも美味しいと思っている。ドライフルーツ全般が好きだけれど、パンに入っているぶどうは特にジューシーだと思う。
 それに、ぶどうぱんは他のパンよりも日持ちがするような気がする。
 先日、家を3日間留守にしたとき、出かけるときにすでに賞味期限が切れていたぶどうぱんを捨てるのが惜しくてそのまま置いていった。
 帰宅した夜、つまり2日後の夜、今度こそ捨てようと思って袋を開けてみると、パンはふんわりとしているし、レーズンはつやつやしていた。
 よく観察し、確認したけれど、どこも傷んでいない。変な匂いもしない。
 それで試しに一口食べてみると、じゅうぶんに美味しくて、結局全部食べてしまった。
 これは夫に話すと顔をしかめそうなので内緒にしている。
 
 自分にちょうどいい食べ物のような気がする。
 ぶどうぱん、という言葉の響きもかわいい。
 それで私はアンケートや自己紹介文のなかで好きな食べ物の欄に、ぶどうぱん、と書くとなんだかちょっとうれしくなるのだった。
 
 このブログのプロフィール欄にも書いている。
 

タグ:ぶどうぱん
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機種変更の憂鬱

 スマートフォンの機種変更をしないとな、と少し前から考えていた。
 今の機種は4年以上使っている。
 時々、不具合を感じていたので、もうそろそろかな、と思っていたのだった。
 私が使っているのはiPhoneで、新しい機種が次々販売されているけれど、あまり興味はなく、今のスマホさえ機能を使いこなせてはいない。
 より便利になっているといってもその複雑さについていけていない。しくみが理解できていないのだ。
 すべてに理解が及ばない、ということで、漠然とした不安をいつも感じていた。
 好きな人にとっては、機種変更は心躍るイベントなのかもしれないけれど、私には憂鬱の種だった。
 契約している携帯会社のショップには長い間、足を運んでいない。
 前回は電気屋さんで購入した。4年半前のことだ。
 ショップに行くよりもそのほうがいいと教えてくれる人がいたのだった。
 そのときは前日に説明を聞きに行き、その翌日、同じ担当者がいる時間にもう一度行った。
 事前にネットでも情報収集しておいた。
 一番気になるのはデータの移行だった。
 古いスマホのデータを保存して、新しい機種に移すのである。
 メールやゲームなどのアプリごとに機種変更コードを取っておいたり、パスワードを確認しておく必要があった。
 前回はそれらを自力でなんとかやることができた。
 でも今回もまたそれができるか不安があった。
 機種変更の失敗は私の周りの人にはよくあることで、ライングループから名前が消えたり、ゲームのデータがゼロになったりという話はよく耳にしていた。
 しかし今回、調べてみると、ショップで頼めば有料でデータ移行をしてくれるということがわかった。そういう制度ができているのだった。
 それに自分でやるにしても〝クイックスタート〟というやり方があって、それは新旧の機種を並べて置いておくだけでできるというのだった。
 技術は進歩している。かなり簡単になっている。店に行かなくてもネットでスマホを買って家に届けてもらうことを携帯会社は推奨しているようだった。
 説明を読んでいると、自分にもできそうな気がしてくる。でも本当にできるだろうか。
 かなりいろいろと考えた。
 うーん、どうしよう。一度、機会をみて説明を聞きに行こうか、と思いながら手帳を見ると、ちょうど仕事の休みが続くときがあった。
 それでやっぱりショップへ機種変更に行ってみることにした。あれこれ考えるのがいやになったのだった。
 
 家から自転車で10分ほどの距離にあるショッピングセンターのなかの店を予約した。
 そこはいろんな人が来るので対応が親切だという評判を聞いていたのだった。
 iPhoneの機種変更だと言うと選択肢はひとつだけで、最新の機種となった。
 20代らしき店員に丁寧に説明してもらい、その説明に対する疑問点については質問して納得した。
 いらないと思う付属品は断った。保護フィルムなどは手数料も含めてとても高価だったので他で探すことにした。
 データ移行については前の方法で自力でやるつもりだった。そのために時間のたっぷりあるときを選んだのだった。
 けれど、
「ほぼすべてのデータを移行できます。アプリも全部です。すぐに前と同じように使えますよ」
と笑顔で言われて気持ちが揺れた。
 〝クイックスタート〟を使うのが普通だという。
 1時間でできるというので、私は結局頼むことにしたのだった。
 
 あんなにいろいろと考えていたのに、最後は気楽な方法を選んでしまった。
 おかげで時間を有効活用することができた、とは思うけどなんとなくこれでよかったのか、という気持ちが残る。
 今は無事に機種変更が終わってホッとする気持ちだけを受けとめるようにしている。
 数年後の次の機種変更のときは、技術はどのように進歩しているだろうか。
 そして私はどんなことを思うのだろうか。
 
 
 
 

タグ:機種変更
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〝君たちはどう生きるか〟

 〝君たちはどう生きるか〟は、スタジオジブリ、宮崎駿監督の最新作である。
 なんの事前知識も先入観もなくこの映画を観たのだけれど、その感覚がとても新鮮だった。
 私は彼の作品をほぼすべて観ている。今まではあふれるほどの情報を背負ってそれらを観てきた。
 今回はパンフレットの販売もないし、表記もないので、誰がどの声を担当していたのかもわからない。
 帰宅後に検索して誰かの予想(おおかたその通りなのだろう)を読んで、ああ、そうだったのか、と驚くばかりだった。
 私がわかったのは、父親役の木村拓哉さんだけだった。アオサギの声はイッセー尾形さんが頭に浮かんでいたけれど、まったく違っていた。実際は菅田将暉さんだった。
 
 宮崎監督は2013年9月に、引退宣言をしている。そしてそれを3年後に撤回してこの映画を作り始めた。スタジオジブリの単独出資であるため、この作品は広告主などのしがらみがまったくない状態で作られたのである。
 私はその頃から題名だけは耳にしていて、あまりいい印象は持っていなかった。なんだかお説教くさい感じがしていたのだった。
 「君たちはどう生きるか」は1937年に出版された吉野源三郎の小説の題名である。
 監督は少年時代にこの本を読んだという。この本は映画の中に登場するが、内容は映画とは関係がない。映画はまったくのオリジナル作品である。
 ただ、観終わった後で考えてみると、この題名がすごくいいということではないが、他にピッタリはまるものが思いつかない。
 宮崎監督は1941年生まれだというから、今年82歳である。75歳から82歳までの7年をかけてこの映画を作ったことになる。それは人の一生においてとても大切な7年間である。おそらく彼が全力を尽くせる最後の作品になるだろう。
 どんな芸術作品でもそうだけれど、評価は人によって変わる。感じ取るものは人それぞれ違う。どのように批評することもできる。
 私が感じたのは、宮崎監督の想像力、イメージの構築力、そして底力のようなものである。もっともっと細部にいたるまで気を配れたのでは、という感じもするが、圧倒的な力量であることにまちがいはないと私は思う。心に地響きがするような感動があった。
 
 象徴、暗喩、仮託、といったことの分析は詳しい人に任せたい。
 監督の想像力が作り上げた世界にどっぷりとはまり込みながら、私の印象に残ったのは、海でキリコと大きな魚を捕って帰った港で、主人公が亡霊のような人間たちのひとりに礼をして、相手も礼をする、という場面である。
 うまく説明はつかないけれど、人が頭を下げ合う姿にハッとした。
 観ていない人にはわからないことを承知で書くが、
 好きな登場人物は若き日のキリコと、主人公の母(少女の姿で登場する)である。
 
 今年の夏も仕事に追われている。
 お盆の前後の10日間以上は、家族のことで手一杯になり、自分の時間は持てないことが予想される。
 この映画をあと数回観て確認したいこともあるけれど、すぐには叶わないだろう。
 そのうち情報も開示されるだろうし、テレビ放映されるときもくるだろう。
 今はただ、自分の受け取ったものを焦らずにじっくりと考え続けていくだけである。
 

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泳ぐ。

 自慢じゃないけれど、生まれてから一度も25メートルをクロールで泳げたことがない。
 息継ぎができないので苦しくなると途中で立ち、息を整えてまた泳ぐ。調子がよければ、途中で一度立つだけでプールの端まで辿り着けた。
 小学校から高校を卒業するまで、夏の体育は水泳だった。夏休み中にも学校のプールに行く日があったし、遊園地のプールに友達と行くこともあった。そういうときは浮き輪でぷかぷかと水に浮かぶのを楽しんでいた。
 
 水遊びは好きだけれど、水泳は苦手、だった。そういう自分でずっとやってきた。
 この苦手科目を一生抱えていくつもりだったけれど、思いがけず、昨年末からスイミングスクールに通うことになった。泳げない大人のためのクロール初級クラスである。
 そこで何十年ぶりかで水に浸かった。
「まず、蹴伸びをしてみてください」
と言われて、水に全身を投げ出すように浮いてみた。久しぶりだったのでかなり思い切ってやってみた。子どものときも浮くことはできていたのである。
 浮いている私にコーチが、
「頭が上がっているのでもう少し下げて」
と言った。
 私は、そうか、頭を下げたほうがいいのか、と思って、水中でうつむくように顎を引くと、
「いいですよ。よくなりました」
と言われた。
 次にバタ足をすると、
「膝が曲がっているので、伸ばして、脚を上下に動かしてください」
と言われた。
 私は、そうなのか、膝を伸ばすのか、と気をつけるようにした。
 
 指導は素直に受け入れる。とても真面目な生徒である。
 悪いところを指摘され改善策を示してもらう。それに従えば必ず上手になるのは明白だ。
 そうして私は思ったのだった。 
 小学1年生から高校3年生まで、ずっと水泳の授業があったというのに、こういう指導を受けた記憶がない。頭が上がっているとか膝が曲がっているとかということを先生から言われたことがないのだ。
 もし言われていたら改善していただろう。
 泳ぎ方については先生の見本を見ただけで、理論などは習わなかった。それぞれ自然に泳げるようになるだろう、と教師たちは考えていたのではないか、という気がする。
 よく覚えているのは高校3年のときの水泳の実技テストのことだ。
 ひとりずつ順番にクロールで25メートルを泳ぐのだった。
 プールサイドにいるクラスメイトたちの視線が気になって、私は緊張して胸がうわずっていた。
 いつもよりもっと泳げず、何度も何度も立ち止まった。
 みっともない、情けない姿をみんなの前に晒していることが、いたたまれず、泣きそうになりながら、プールの端になんとか着いたのだった。
 そのとき、体育の女性教師が憐れむような眼で私を見ていたことが忘れられない。
 彼女にとっては、クロールで25メートルを泳ぐなんて簡単なことだったろう。
 彼女なら、もっともっと、いくらでも軽々と泳げただろう。泳げない私が不思議な生き物のように見えたにちがいない。
 泳げない生徒には及第点をつけなければいい。教師にとってはそれだけのこと。
 しかし、40年以上たった今、思い返してみると、そういう結果になるまでに、彼女は私に泳ぎ方の指導をしなければならなかったのではないか、という気がするのだ。
 
 あの体育教師の眼を思い出すたび悔しい気持ちが湧きおこる。
 高3の夏から現在までの間に、私は大人になりいろんな経験を重ねてきた。 
 そして今、自分の働いたお金で月謝を払ってスイミングスクールに通っている。
 スクールでは時間をかけてさまざまな方法で丁寧な泳ぎ方の指導を受けている。
 8回のレッスンがワンクールだけれど、継続し続ければ、何年でも指導を受けることができる。
 方法や形はわかっているのに息継ぎができない、というのは、精神的な要因もあるのかもしれない。
 自分でそんな気がする。
 だからあるときふっと息が自然にできるようになるのではないか、と思っている。
 それまで時間をかけて自分自身を解きほぐしていく作業が必要なのかもしれない。
 それを私はじっくりと時間をかけてやっていくつもりだ。
 適切な指導を受けながら。
 
 ちなみにコーチは19歳の大学生である。
 彼に足首を持ってもらって、はい、また膝が曲がってますよ、と言われると私はあたふたしてプールの中で溺れそうになるのだった。
 

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