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はじめての場所

 はじめての場所に行くのは不安なものだ。
 誰かの紹介があったり、知り合いが一緒に連れて行ってくれたりすると、ことがスムーズに進み、不安を抱くこともない。
 ご縁の有り難みというのを実感できる。みんなこのためにいろんな団体やグループに属しているのではと思うくらいだ。
 
 あるいはそういうご縁がなくても、近頃は事前にネットを使って入念な準備をすることができる。
 はじめてのレストランに行くときは、場所の地図を確認して行き方を頭に入れたり、メニューを見たり、口コミを読んで店の評判を確認できる。
 電車の乗り換えや、目的地までの道筋についても、映像で説明があったりする。
 前回のイギリス旅行の際には、最寄りの駅から湖水地方の小さなホテルまでの道筋を事前に映像で確認することで、とても安心できた。
 少し前、阪急阪神の高速神戸駅(この駅では同じホームから阪急電車と阪神電車が発着発車する)からJR神戸駅までの道筋を知りたいと思って検索してみたら、丁寧な説明付きの動画を見ることができた。
 このように事前の知識や情報といった下準備が不安を軽減してくれることを私は何度も経験している。
 
 はじめての場所に、まったく事前の知識のない白紙の状態で行く、というのはできるなら避けたい、というのは多くの人の本音だと思うし、どうしてもそういう状況になったときは大きなパワーを消耗するというか、気合いを入れていかないといけない。
 時間があるときは、知り合いに尋ねてツテを探したりするのだけれど、何をしても繋がりを探せないこともある。
 
 よく覚えているのは、今から二十年ほど前、初めて一人で新幹線に乗って、横浜の友人のところに行ったときのことだ。私は専業主婦で、それまで一人で遠くへ出かけたことはなかった。
 夫から聞いた説明を頼りに地下鉄の駅から新幹線の駅まで行くのがとても不安だった。地下鉄の改札を出るときに、大きなブザーが鳴った。新幹線の切符を地下鉄の改札の機械に入れていたのだった。これはとても恥ずかしかった。自分がとても緊張していることを自覚した瞬間だった。
 
 同じ頃だったと思う。私は新聞広告で着付け教室のチラシを見つけて、かなり悩んだ末に申し込んだ。
 嫁入り道具に作って貰った何枚もの着物が、袖を通さないままタンスに眠っていたので、どうにか自分で着られるようになりたいと考えたからだった。
 場所は最寄りの駅の近くのビルの一室だった。有名な着付け教室だったが、初心者クラスは各地にたくさんあって、ひとつひとつは小規模だった。
 地図を頼りにビルの入り口に辿り着くと、古びた細い階段があった。それを2階まで上るのだった。
 その階段を見上げたとき、不安と心細さが一気にこみ上げてきた。
 それでも行かねば、と決心して階段を上り、ビルの一室のドアをノックすると、和装の先生が優しく迎えてくださった。そしてその後数年間、私は着物の世界にどっぷりはまり、どこへ行くにも着物で出かけるようになった。
 慣れれば何でもなくなることをそのときに経験した。だから頭ではわかっているのだけれど、それで緊張感が減ることはない。
 
 先日、久しぶりにそういう緊張を味わった。
 私は八月にコロナに感染してから後遺症で身体の調子が悪かった。
 それで自転車で通える距離のスポーツジムやヨガなどのレッスンを探していると、家から10分ほどの場所の公園の中にちょうどいい教室が見つかった。マラソンコースや競技場などのある公園で、その中にプールの施設もあるのだったが、そのプールの2階にスタジオがあって、そこでさまざまな教室が開かれていたのだった。
 週に一度通うのなら、夜でなければならない。できればリーズナブルなほうがいい。条件を絞っていくと、金曜日の夜7時15分~のピラティス教室に辿り着いた。
 ピラティスとは、ヨガに似た、身体を整える緩やかな体操である。
 
 
 無料の体験を経て、私は10月からこの教室に通い始めた。
 プールの施設内にはじめて足を踏み入れたが、受付の人が親切だったし、2階の様子も想像できたので、体験のときはあまり緊張しなかった。話しやすい先生で、すぐに慣れてしまった。
 このピラティス教室に通い出してから、私はプールのほうが気になり始めた。
 午後は子ども達のスイミングスクールが開催されていて賑わっているが、それ以外の時間には大人の自由遊泳とさまざまなレベルのスクールが開かれていた。
 ただ、プールの2階にあるスタジオに通いながらも、プールを実際に見ることはできない建物の構造になっていた。
 更衣室の矢印はあるけれど、私はそちらのゾーンに足を踏み入れたことはなかった。
 壁の張り紙で、夜にクロール初級コースがあることを確認した。受付で尋ねてみるとこれが一番初心者向けのクラスだということだった。
 私は子どもの頃から息継ぎがうまくできなくて、25メートルを立ち止まらずに泳げたことは一度も無い。
 これを人生最後の目標にして、先生の指導を受けながら、じっくり通ってみようか、という気になったのだった。
 
 12月からのクラスに空きがあったので、思い切って申し込んだ。
 それから一度、教えてもらった2階の観覧席から見学した。
 それでもまだ、更衣室のしくみや、着替え方などはまったくわからなかった。
 私はずっとドキドキしていた。
 初日は早めに行った。その日はじめて更衣室に入り、鍵付きのロッカーを見た。その奥からプールに出られるようになっていた。
 水着に着替えて頭にゴム製のキャップを被った。化粧は禁止だった。すっぴんの顔にキャップを被って髪を入れ込むと、自分の顔が母親にそっくりだったので本当に驚いた。
 化粧をして前髪を下ろしているときよりかなり老けて見える。
 開き直るしかなかった。それがまったくの素の自分なのだった。
 
 他の人がバスタオルを棚に置いていたので私もそうした。
 シャワーの下を通ってプールサイドに進み、係の人に、スクールの初日だと告げると、椅子に座って待っていてください、と言われたので、その椅子に座って待った。他に数人の人がいたので、頭をちょこんと下げて挨拶をした。ほとんどの人が年上のようだった。
 すぐに若い男性のコーチが来て、愛想良く話しかけてくれた。
「では、まず水に入りましょう」
と彼が言って、生徒達はぞろぞろとプールに浸かっていった。
 ほんとに、何十年ぶりのことだったろう!
 
 市の施設があって、規則に従って手続きをして、お金を払って、水着などを準備して、集合時間に集まって、コーチの指導を受けている。
 プールという特殊な場所に、自分がいることがなんだかとても不思議だったけれど、火曜の夜がきたら、私は今、ごく淡々とここに通っている。
 
 はじめての場所に立ち向うパワーをいつまで持ち続けられるのかは、わからないけれど。今回はなんとかクリアしたのだった。
 

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