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新しいミシン
新しいミシンを買った。
三十年ぶりの買い換えである。
十代の頃、私はミシンが欲しくてしょうがなかった。
家には母が洋裁の内職をしていた頃の古い動力ミシンがあったが、凄いスピードと馬力で動くので、危ない、という理由で使わせてもらえなかった。
「指を縫うてしまうとアカンから」
と言われたものだ。
私は、指なんか縫うものか、と思っていたけれど、ガガガッと鳴る動力ミシンに、やはり恐怖心はあった。
五歳上の姉が結婚するときに、嫁入り道具として、卓上ミシンを買ってもらった。これが羨ましくて、新婚の姉の家までミシンを使わせてもらいに通ったものだった。
そのうちに、姉は私にこのミシンをくれたので、実家に持って帰った。姉は洋裁にはまったく興味がなかったので、ミシンのことなんてどうでもいいという様子だった。
私は大学生だった。そのミシンを使って、ワンピースやスカートを縫い、それを着て学校に通った。洋裁の雑誌に型紙が付録でついていた。私が幼い頃、母は洋裁のプロとして仕事をしていたが、父の鉄工所が忙しくなってからは洋裁をやめて工場の手伝いをしていた。
家業と家事に追われていたこともあり、母からは洋裁についてはほとんど教えてもらえず、私は本や雑誌から独学でやり方を習得していった。
一度、紺色のタイトスカートの後ろにスリットを入れて縫ったら、母がそれを見て、
「こ生意気なことしてあるやないの」
と言ったことがあった。
それ以外は特に、上手とも下手とも言われなかった。
私は、その、姉からもらったミシンを持って結婚し、その後もずっとそれを使っていた。子どもが生まれてからは、親子でお揃いの洋服や小物などを縫った。
長女が幼稚園に通っていた頃に、そのミシンが壊れた。
(直線縫いしかできない、安物のミシンだった。メーカーはわからない)
夫の車に壊れたミシンを積んで、ママ友に教えてもらった専門店に行ったことをよく覚えている。
古いミシンを下取りしてもらえると聞いていたのだった。
その店で、丹念に説明を聞いて、新しいミシンを買った。
母に電話をして、ミシンを買ったことを伝えると、
「どこのミシン?」
と聞くので、
「ジャノメの」
と答えると、それならええわ、と言った。
母が使っていた動力ミシンもジャノメ製だったのだ。
私はそのミシンを三十年間使い続けた。
シンプルなデザインと、どっしりとしたフォルムをとても気に入っていた。
すごくよくできた私の相棒だった。
カーテンや座布団カバー、マスクもたくさん縫った。
長い間、調子よく動いてくれた。
大好きだった。
三十年がたって、全体的に機能が衰えてきてスムーズに動かなくなった。まさに寿命という感じだった。
調べてみると以前の店はなくなっていた。
ミシンってどこで買えばいいのだろう、と思っていたら、ちょうどご縁があって、友人が店を教えてくれた。売り出しがあって目玉商品が出ているという。私はひとりで出かけて行って、その目玉商品のミシンを買った。
次もジャノメにした。
前のミシンと造りが似ていて、ボタンの位置なども一緒だった。
お店の人が、
「また三十年使ってくださいね」
と言った。
三十年たつまでに私は死んでしまうだろうけど、それまではこれを使い続けるのだろうと思った。
今回は下取り制度がなく、古いミシンは粗大ゴミに出すことになった。
私は市のセンターに電話をして、卓上ミシンを一台、引き取ってほしいと告げて、番号をもらい、郵便局でチケットを買った。
愛着はあるけれど、残しておきたいという気持ちはおこらなかった。
こんなふうにさまざまな物が入れ替わっていく。
私の中の細胞が生まれ変わるように。
タグ:ミシン ジャノメ
英語物語
ここ最近、”英語物語”というスマホのゲームにとてもハマっている。
私は10年前に、夫の仕事の付き添いで、初めてイギリスに行った。
夫の仕事中は一人で行動しなくてはいけないと聞いて(当然のことだけど)、ツアー旅行のように添乗員さんがいるわけでもないので、とにかく英語の勉強をしなくては、と、予定が決まってすぐに英会話教室に通い始めた。
それ以来、1年おきにイギリス旅行を試みてきて、その間ずっと英会話教室に通い続けているというのに、実際、私の英会話力はまったく進歩していない。
外国人と話すことに慣れただけで、先生の話す内容が理解しきれていないことを痛感していた。
(理解できていないことを先生に伝えず、いつも私はわかっているような顔で肯いている)
初めの頃は英語で日記を付けたり、話す内容を事前に英語でノートに書いたり、と真面目な生徒だったのだけれど、自分の都合で次回のレッスン予約をするので、近頃は一週飛ばしにすることも多かった。コロナでイギリス行きがストップしていることもあって、英語への熱意が醒めていたのだった。
スマホの翻訳機能は充実しているし、通訳代わりのポケトークも持っているし、旅先でもそういう道具を使って何とか乗り切れるのでは、という気持ちが大きくなってきていた。
でもやっぱりそんな自分へのうしろめたさがあって、自力で英語を勉強できるスマホアプリを探してみたのだった。
それで出会ったのが”英語物語”というゲームだった。
ストーリー仕立てになっていて、英語の発音も自然に耳にはいってくる。
最初はそれだけでも効果があるように思えた。
始めてから3週間近くになるけれど、実は私はまだこのゲームの仕組みを完全にわかってはいない。
とても複雑で、奥が深くて、理解が及ばないのだ。
けれど、日本の各都道府県を旅しながらバトルをして、地域の”ゆるキャラ”をゲットしていくという流れだけはわかっている。
バトルは、出された英語の問題に正解すると攻撃ができるようになっている。
問題のカードには文法、名詞、動詞、英会話、などのジャンルがあって、それぞれ、正解するとレベルが上がり、間違うと下がる。
中学、高校、大学、本格的……、といった感じである。
間違うと復習しなければならない。
復習した問題が繰り返して出題されるけれど、私は同じところで間違える。
ショックを受けて笑ってしまう。
学習したことの定着率が若い頃に比べて衰えていることを思い知らされる。
ただ、大学受験のときに暗記した単語や文法が、ふっと蘇ってくることもある。
今、私はこのゲームがおもしろくて仕方がない。
ゲットした”ゆるキャラ”を鍛えたり進化させたりできることもわかってきたし、各地に裏ステージというのがあって、そこには強い裏ボスがいることなどもわかってきた。
ゲーム内で”助っ人”を頼めるフレンドもできた。
やり始めると何でも熱中するほうで、ピーターラビットの探し物をみつけるゲームや、”ツムツム”というゲームは10年以上続けている。
それらはコツをつかんでレベルを上げていけばたいていは高得点を取ることができる。
けれど、英語物語は、英語の問題に正解しなければ強い相手に勝てない。
つまり英語力がなければ達成感が得られないゲームなのだ。
ここぞ、と言う時に、まったくわからない問題が出てきて撃沈することがある。
ガクッと落ち込む。
進んで行くにつれて、相手が強くなってきて、延々と問題を解き続けないといけなくなってくる。
根気が無くなりそうになりながら、なんとかギリギリでクリアする。
すべて正解できればすぐにクリアできるのだけれど、悲しいことに、間違うのだ。
とにかく繰り返して覚えていくしかない。
こんな私にも、ゲームの仕組みを隅々まで理解できる日が必ず来ると信じて。
タグ:英語物語
なないろえんどう
父が生きていた頃、毎年、必ず畑にえんどう豆を育てていた。
春になると白いスイトピーのような花が咲き、鈴なりの実がなる。
黄緑色の壁に囲まれて、植物の濃い呼吸を感じながら、子どもの私は背伸びをして、毎日、収穫した。
羽曳野市碓井(うすい)地域が原産の”うすいえんどう”という品種だったと思う。
収穫したうすいえんどうは持ち帰って皮を剥き、実を取り出す。
皮は縦に入った線の部分でパカッと割れる。
なかには7,8個の豆粒が行儀良く並んでいる。まるで奇跡のように。
それを親指の腹でザーッと取り出す。
一回の収穫でボールが一杯になり、それらは出汁で煮られて卵とじにされ、その日の晩ご飯のおかずになるのだった。
私はこの仕事が好きだった。
ボールにたまった豆はほんのり水分を纏っていて、無垢で、美しかった。
自然の清らかさを感じて、触れるのが畏れ多いような気がしたものだった。
大人になってから、進路に迷う高校生の少女を主人公にして、「なないろえんどう豆」という小説を書いた。
私にとってえんどう豆はどこへでも繋がる空へと開かれた未来のイメージだった。
それを書いてから20年ほどもたって、桜の季節に手作りグループで作品の展示販売会をすることになったとき、その会の名前を”なないろえんどう”と名付けることにした。(私の提案があっさりと通った)
トンボ玉やパッチワーク、染色、トールペイント、木工など、それぞれの創作品を持ち寄るメンバーがちょうど7人だったので、この名前を思いついたのだった。
40~80代のメンバーだけれど、その活動には未来が感じられた。
その会は10年以上も続いている。
与謝野晶子ゆかりの堺市ななまちの雛人形巡りウォークに合わせての開催で、今年も3月から始まって4月の第一日曜で最終日を迎えた。
案内のハガキを送ると、懐かしい友達が会場に顔を見せてくれたりする。
毎年訪ねてくれる心優しい人達もいる。
来てくれた人達と一緒にお茶を飲みながら話す時間は何にも代え難く、感謝の思いばかりが心に満ちる。
仲間とのふれ合いも楽しい。
”なないろえんどう”という看板を見るたびに、私は子どもの頃のえんどう豆の手触りを思い出している。
無垢で清らかなもの。人との出会い、縁、の有り難さ。
最終日に看板をはずして、私の春のたいせつなイベントが終わった。
次は来年の春。
春休みの憂鬱
子どもの頃、3月があまり好きではなかった。
特に春休みである。
春休みというのは何もすることがなく、どうやって過ごしたらいいのかわからなかった。
とても宙ぶらりんで、もあーっとした空気と不安に支配されていて、身体にも心にも緊張感がなく、緩んでいて、なのに何かに焦っている感覚があった。
3月は自分の誕生日がある特別な月なのに、一年の中で一番ついていない月のように感じていた。
私が育った家の玄関は、家業である鉄工所の出入り口を兼ねていた。
両親がそこで働いていたので、家を出るときは理由を言わなくてはいけなかった。気の向くまま、自分の判断で出かけることはできなかった。
友達との約束や、習い事などの正当な理由が必要だった。
それが無い限り、家の中にいなければいけなかった。
でも家の中にいても何もすることがないのだった。
機械の音が鳴り響いているのでテレビは観られなかった。音楽も聴けない。
本は家に数冊しかなく、読み尽くした本を繰り返し読んでいた。五歳上の姉が学校で借りてくる本をむさぼるように読んでいた。
活字に飢えていたので、新聞も隅々まで読んでいたし、広告や暦なども読んでいた。知らない漢字は意味を想像して読んでいた。
あの頃、近くに図書館があったら、どんなに良かっただろう。
あるいは、一緒に遊ぶ親友のような友達(ちびまる子ちゃんにとってのたまちゃん、じゃりン子チエにとってのヒラメちゃんのような)がいたら、私の子ども時代はどんなに豊かだったろう、と思う。
築百年ほどもたっている古い家は、天井や柱が黒く塗り込められていた。
黒い家のなかで、無限にある時間を有効に使えないもどかしさをいつも感じていた。
そのせいか、大人になって、時間が自由に使えるようになった今、私は自分のやりたいことに対してとてもせっかちになってしまう。
あれもしよう、これもしよう、と思って、その準備を早め早めに整えては放置してしまう。
私は昨年の5月に台所を自力でリフォームしたのだけれど、塗料やリメイクシートはその半年以上前に買い揃えていた。
読もうと思って図書館から借りた本を、読まないまま貸し出し延長し、それでも読まないまま返すことは日常茶飯事だ。
今は、2か月ほど前に実家の物置から持ち帰った八端判(59×63㎝)の大きな座布団が五枚、居間に積み上げたままになっている。
この座布団は絹100パーセントの表地に艶があり、きらびやかな柄がついていてなんだかスゴい迫力である。
これにカバーを縫うために、小鳥の柄の生地とファスナーをユザワヤの通販で買った。そして放置したままになっている。
今の私はやりたいことが一杯で時間が足りないことに憂鬱を感じている。
やりたいことがあり過ぎる。読みたい本があり過ぎる。観たい映画もあり過ぎる。行きたい場所も、考えたいことも、描きたい絵も、作りたい料理もいっぱいある。
それでも全部自分でやることを決めて、気持ちの向かうままに行動できる分だけ、子どものときより今の方がずっといいなと思っている。
大阪の貌
十数年ぶりに会った友人のMから一冊の本をもらった。
ある会合に彼は赴任先の山梨から来ていて、これ、おもしろかったから、とだけ言って私にその本を手渡して、そのまま帰っていった。(彼は貸したつもりかもしれない)
その、岸政彦という作者の本を読んでびっくりしたのは、その中の小説の舞台が私の住んでいる街だったことだ。
地理や地名、建物やお店もそのまま書かれていて本当に驚いた。(Mがそれをわかっていたかは不明だけど)
その後、図書館でその作家の本ばかりを借りて続けて読んだ。
自伝的なエッセイから、彼が大学入学と同時に郷里の名古屋を離れて大阪に移り住んだことを知った。
一時期、ほんとに私と同じ街に暮らしていたこともわかった。
彼が大学受験のためにひとりで大阪に来て、天王寺のホテルに泊まったとき、そのホテルの真横の路地でヤクザが発砲事件を起こした。
そのニュースを聞いたときに、ああ、自分はここに住もう、と思ったそうだ。
そういうディープな感じに惹かれたのだろう。(よくわかる)
新世界のジャンジャン横町で老夫婦の営むお好み焼き屋に行き、地下鉄の中では小学生達の漫才のような会話に感動したらしい。
同じ街に住んでいたのは今から三十年ほど前の6,7年間で、私はちょうど二人の幼い子どもらを必死で育てていた頃だ。
彼のアパートは広い道路を隔てた西側にあったようだ。
私が住んでいたのは東側だけれど、生活圏はほぼ重なっていたはず。
けれど若い男性と、子育て中の主婦が見ていた街の貌はずいぶん違っていたように思う。(あたりまえのことだけど)
彼は三十年前の大阪を、〝自由で、反抗的で、自分勝手で、無駄遣いが好きで、見栄っ張り〟だったと書いている。今はその面影すらもないが、と。
確かに大阪はそういう貌をしていただろう。
奈良に近い農村地帯で生まれ育ったので、一応、大阪出身といえるけれど、結婚を機に大阪市内に暮らし始めた私にとってはこの街は別世界のようだった。
そこに暮らすひとり一人に、街は違う貌を見せる。
電車の中で見かけた高校生達に、子どものいない彼は、大阪を地元として育つ自分の子どもがいたら、と想像する。
そのS高校は、ちょうどうちの二人の子どもらがともに通っていたところだった。
子どもらは三歳違いだったので、入れ替わりに入学して、私は六年間、行事やら懇談やらのたびにその高校へ自転車で通ったのだった。
遠足で体調を崩した娘を迎えに行ったこともある。
私は自分がそうじゃなかったので、伝統のある公立高校へ子どもらを行かせたいと思っていた。
子育てのために費やした時間、お金、気持ち、の容量は膨大で、それがよかったとか悪かったとかいう感覚はない。
私はこの街で〝大阪のおばちゃん〟になったけれど、市内出身の、生粋の大阪のおばちゃんにはなかなかかなわないところがあり、コンプレックスさえ抱いている。
住んでいてもどこか懐かしさのあるこの街に、私は今も、この先も暮らし続けるつもりだ。
さまざまに表情を変えていく、その貌をみつめながら。
タグ:岸政彦
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