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Swatchの時計

 大学生の頃、Swatchの時計を初めて目にした。
 大阪の心斎橋に店があって、若者でにぎわっていたのだった。
 当時の私は高校の入学のときに親から買ってもらったSEIKOの腕時計をひとつ持っていて、それを大切にして使える限り使い続けるものだと考えていた。
 スイス製だというSwatchの時計はプラスチックで出来たものなど多種多様なデザインがあり、とてもおしゃれだった。
 こんな時計があるんだな、と驚いた。用途に合わせて時計を着替える、という文化をそのときに知ったのだった。
 お店の前を通るたびに覗いて、さまざまな時計の中から、自分だったらどれがいいかな、と選んだりしていたが、自分で買おうとは思わなかった。すごく高価ということもないが安いものでもなかった。贅沢品のように感じていた。
 
 その後、私は結婚して子どもができた。息子が中学生くらいの頃に、二人で偶然、Swatchの店の前を通りがかって中に入ったことがあった。
 そのときも、ポップなデザインの時計が並んでいた。
 「いつか彼女ができたら、こういうのをプレゼントしてあげるといいのよ」
と、それらを見ながら息子に言った覚えがある。
 私だったらすごくうれしいだろうと思ったからだった。
 その言葉は息子の中にインプットされたようで、その後、彼女ができるたびにSwatchの時計を贈っていたというのを聞いた。
 
 4日前に私は誕生日を迎えた。
 毎年の恒例で、姉が、誕生日プレゼントは何がいいの? と聞いてくれた。
 いつもはそのときに必要な物をリクエストするのだけれど、今年は特に思い当たるものがなかった。
 それで考えているうちにSwatchの時計のことを思い出したのだった。
 ずっと欲しいと思いながら、自分で買うことはできないものだった。
 店は今も同じ場所にある。
 心斎橋駅で待ち合わせしてお店に行き、二人であれやこれやと言いながら選んで、姉が買ってくれた。
 思っていた以上に、胸がジーンとした。
 40年越しに、ひとつの願いが叶ったのだった。
 

タグ:Swatchの時計
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ピラティス・レッスン

 もうおととしのことになる。
 8月の終わりにコロナに感染してから、回復後も私は身体のスッキリ感が得られなくて鬱々とした日々を送っていた。
 こんなことは初めてだった。このままでは心身ともにダメになる、という強い危機感を抱いて、なんでもいいからとにかく身体を動かすようなことをしよう、と思ったのだった。
 それでネットでいろいろと探してみた。
 家から自転車で通える距離で、決まった時間に通うなら夜でないといけない。月謝が高いのも困る。
 辿りついたのが、家の近くにある市民プールの2階スタジオでやっているピラティス教室だった。
 ピラティスというのはヨガに似た体操、というようなイメージだけしか持っていなかった。
 けれど条件に合うのがこれしかなかったのだ。
 
 申し込んで参加してみると、40代後半くらいの女性インストラクターが笑顔で迎えてくれた。
 受講生は15人ほどで、高齢の人が半数以上だっただろうか。数人の男性もいた。20年以上も続けているベテランの先生で、生徒たちへの気配りと声がけが丁寧で、指導に信頼を感じた。
 とても明るい雰囲気があり、それに救われるような思いがして、私はここでピラティスを続けていくことを決めたのだった。
 
 ピラティスというのはインナーマッスルや体幹を鍛えて健康的な身体を作る、リハビリから始まったエクササイズで、ドイツ人の従軍看護師が戦争で傷を負った兵士の回復のために考案したという。
 古代インドの宗教修行を起源とするヨガとは根本的に違うけれど、その動きも取り入れられているそうだった。
 先生の言葉に導かれるように身体を動かしていくと、思わぬ筋肉や関節に効き目を感じる。
 ここを動かすと、こんなところに効果が出るのか、という新鮮な発見がおもしろかった。
 
 気に入って通っていたのだけれど、4か月後に突然、レッスンの先生が交代することになった。
 更年期障害などによる体調不良ということだった。人気のある先生なので、毎日、さまざまな場所で講座があって休みなく働いておられたのだった。事情を聞くと無理を言って引き留めることはできなかった。
 そうして新しくO先生がやってきた。
 前の先生と年齢こそ同じだけれど、インストラクター経験はゼロの人だった。指導者としてはまったくの初心者なのだった。
 不安はあったが私はとにかく続けてみることにした。
 
 レッスン初日、O先生はすごく緊張していた。
 指導計画を書いたノートを見ながら進めていくのだけれど、言葉がけがスムーズにできず、水分補給を促すことに気がまわらない。私はハラハラしながらO先生を見ていた。一生懸命さだけがひしひしと伝わってきた。
 先生の姿は自分と重なった。
 その2年前に、私はNHK文化センターの文章教室の講師を、ベテランの先生の体調不良を理由に引き継いでいた。
 その講座の受講生さん達は、前の前の先生の頃から30年以上続けている人が多く、全員が年上で高い文章力と豊富な知識を持っているのだった。すでに6冊のエッセイ集を出版している90代の女性もいた。
 私はそのとき二つの文章講座をやっていたけれど、そちらの生徒さん達は一からの始まりで、私は彼らの一作目の作品から目を通しているので、いろんな面で深い理解ができるように感じていた。
 しかし長い執筆歴のある人達を、人柄や歴史もわからないまま途中から指導するというのは、私にはとても荷が重いことで、初日の前夜は眠れなかったことを思い出す。
 
 私はO先生を応援したいと思っていたけれど、一方で、貴重な時間とお金を費やすだけの価値がなければ続けることは難しいと考えていた。
 あれから1年がたった。O先生は今ではノートを見ることもなく、ニコニコしながらのびのびと指導を続けている。水分補給も決して忘れない。
 生徒達は、先生の流れるような言葉に心身を任せて動いていく。
 “スワン”や“キャット&カウ”、“マーメイド”といった名前のついた動きも覚えてきた。
 ピラティスも含めて体操教室の先生というのは、スパッツとTシャツといった服装が多くて身体のラインがそのままあらわになる。
 以前の先生は痩せていたが、O先生は溌溂とした身体をしていて、弾むような勢いが感じられる。
 見ていて気持ちがいい。
 私は身体のメンテナンスをしに行っているつもりだけれど、先生から元気をもらっているようでもある。
 
 ピアノ、そろばん、書道…。
 子どもの頃、親から行かされていた習い事はどれも好きではなかった。
 それでもやめるという選択肢はなかった。
 ずっと続けていたので、“続け癖”のようなものが身についたように思う。
 何かをすぐやめる人を見ると、よくそんなことができるな、と思いつつ、羨ましさも抱くこともある。
 それでもこの癖をつけてもらえたことに感謝をしている。
 大人になって自分で始めた習い事は、どれも納得しながらということもあって、すべて10年以上続けている。
 
 ピラティスもそうなるのでは、という予感がしている。
 
 

タグ:ピラティス
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自転車を買う

 自転車を買い替えたいな、と思っていた。
 普通自転車のほうである。
 私の生活に自転車は必需品で、たいていの用事をそれで済ませてきた。
 月に8日ほど、片道30分漕いで事務の仕事にも行っているけれど、実家の畑通いのために電動自転車を買ってからはそれを使っている。
 とても楽になったが、運動不足になっていることへの後ろめたさが多少あって、家の近くは普通自転車を使うようにしていた。
 赤と黒のツートンカラーで、とても気に入っていた。
 近所のスーパーへの買い物や、図書館、ピラティス教室やプールへ通うのにも普通自転車に乗っていた。
 電動自転車はバッテリーの取り外しなどの手間があり、サッと乗れる普通自転車と乗り分けをしていたのだった。
  
 大切にしているつもりだったけれど、雨ざらしの場所に置いているせいもあって、気が付けばその普通自転車が全体的に錆びてキイキイという音をたてるようになっていた。自分なりにいろいろ対策を講じてみたけれどなおらず、もう寿命かな、と感じていたのだった。
 買い替えを考え始めて夫に相談すると、
「普通自転車はもう必要ないんじゃないか」
という答えが返ってきた。
 私は買い替えは当然のことだと思っていたのでびっくりした。
 
 実は我が家にはもう一台、普通自転車がある。
 これは娘が二人目の出産のために里帰りをしていたときに、上の子を乗せて移動するために買ったものだ。
 前後に子ども用の椅子が取り付けてあり、今でも娘家族が帰ってきたときは重宝している。
 姉妹用のヘルメットも買ってある。
 夫はこの自転車を使えばいいと言うけれど、荷物を載せるカゴがない。
 買い物に行ったときは数日分の食料を前後に載せる必要があるし、洗剤やシャンプーなどの液体類、トイレットペーパーなどの紙類も重くて場所を取る。
 夫は子ども用の椅子を外してカゴを付けたらいい、と言う。
 娘に確認すると、やっぱりその自転車はもう少しそのまま置いといて欲しいと言う。
 私は夫の言葉に気持ちがくじかれてしまった。
 しかし彼は普段めったに自転車に乗らないし、家の横側に置いているので目にもしない。深い考えがあっての言葉ではないという感じもした。
 どうしようかと迷っているうちに、赤い普通自転車のキイキイ音はどんどん大きくなり、私は近所に行くのにも電動自転車に乗るようになっていった。
 スイッチを切ると途端にペダルが重くなる。でも罪悪感があるならそうやって乗るべきかな、という思いも湧いてくる。
 買い替えないなら、古い自転車の廃棄の方法も考えなくてはならない。
 
 いろいろと思い悩んでいるとき、ちょうど、自治体のプレミアム商品券というのが発売になることを知った。
 1万円で1万3千円分の商品券が買える、というものである。
 最高4枚まで買える。そうなると1万2千円分が上乗せされることになる。
 早速、調べてみると、駅前の自転車屋さんでその券(ただしアプリのみ)が使えることがわかった。
 
 私は4万円分の商品券を申し込み、コンビニでそれを打ち出してスマホのアプリに取り込んだ。
 スーパーのレジで教えてもらって使い方を覚えた。
 そしてひとりで古い自転車に乗ってお店に行き、新しい自転車に買い替えたのだった。
 事前に下見をして欲しい自転車を見つけていた。
 色はカーキで夫が乗るにも違和感がないのにした。前輪と後輪をつなぐ部分が斜めの直線になっていて、そこに白字の英文が書いてあるデザインだった。
 黒いワイヤーの洒落た前カゴが付いていたので、後ろにお揃いのカゴを取り付けてもらった。
 ハンドルには傘立ても付けてもらい、それに乗って家まで帰った。
 商品券の上乗せ分では全額を賄うことはできなかったけれど、1万2千円の値引きをしてもらったことになる。
 
 今、私はとても快適に自転車の乗り分け生活をしている。
 新しい自転車はとても気持ちがいい。何の心配もなく乗ることができる。
 
 ただひとつ、不思議なことがある。
 この自転車を買ってから、同じ自転車をよく街で見かけるのだ。
 盗難にあったのでは、とハッとするけれど、よく見ると、後ろのカゴがなかったり、傘立てが付いていなかったりする。
 まったく同じのもあるし、とてもよく似たのもある。
 とにかくよく目にとまる。
 なぜだろう、と思っているうちに、つまりそれが今流行りの型の自転車だということに気がついた。
 
 1台の自転車は10年ほどは乗るものと考えている。
 だから買い替えは私にとっては大きなイベントだ。
 でもこんなによく見かけるのは、たくさんの人が同時期に自転車を買ったといういうことだ。
 街の自転車屋さんが成り立っているのはそういうわけなのである。
 いろんな事情があるにしても、世の中の人はみんな新しい自転車を買うものなんだなー、と感心しているのだった。

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約束

 先日、テレビで女性タレントが、2週間後にランチに行く約束なんてしたら不安でたまらなくなる、と話しているのを聞いた。
 うっかりそんな先の約束をしてしまったら、自分はその日にきちんと行けるんだろうか、ちゃんと覚えていられるだろうか、と心配になるのだという。
 「今晩、ご飯どう?」とか、「じゃあ明日は?」という約束なら安心してできる、というのである。
 自分に自信がないから、という彼女の話には好感が持てた。
 
 私は、ああそんなふうに感じるのか、とそういう心情をはじめて理解することができた。
 私自身は、1,2カ月後の約束をしても平気なタイプで、どちらかというとそのほうが好きなほうである。
 それを目標にしてきちんと達成できたときはとてもうれしい。
 手帳を開いて、ひと月分のスケジュールを作り上げ、確認し、準備をするのを楽しく感じる。
 まず、仕事の日を手帳に書き込む。
 そしてそれからいろんなことを考えながら空白に予定を入れていく。
 家でする仕事の時間も取らなければいけない。
 美容院の予約も必要だし、畑にも行かないといけない。
 何の予定も入れない空白の日も必要だ。
 そうやってバランスのいい配置図が出来上がっていく。
 自分の一カ月をイメージすることができるのだ。
 
 もうずいぶんと前、仲の良かった年上の友人Fさんは、日程が先のほうの予定を入れるのが好きではない人だった。
「2週間後に一緒に映画を観に行って、その後ご飯たべませんか?」
と誘うと、
「ああ、その日はダメなの」
と断られる。
 それで、残念だけどしょうがないですね、と彼女と行くのはあきらめて他の友達と約束をする。
 そうしてその2日前くらいになると、
「あさって行けるようになったわ」
とFさんから連絡が入るのだった。
 でもその段階ではこちらは違う予定を入れてしまっているから彼女とは無理なのだった。
 苦労して時間を作ったんだけど、というような空気を醸し出され、申し訳ないですと謝ることになる。
 第一希望に落ちたので第二希望に決めたら、あとになって第一希望に受かったという連絡がきた、と言うような感じで、なんとも情けない気持ちになる。
 はじめは、今頃になって言われても…、と思っていたけれど、そういうことが続くうちに、次第に、そういう癖の人なのだ、ということがわかってきた。
 
 先の誘いはいったん断る。そして間近になってからもう一度考える、という人なのだと。
 職場が一緒だったので、仕事終わりの予定などはだいたいわかる。
 当時は二人とも独身だった。
 何も入っていないはずの日でも断られる。理由を聞くのは控えてしまい、ただ不思議に思っていたけれど、そういう性格の人だったのだ。
 根本的に自分とは合わない人なのだと考えるようになってだんだん疎遠になってしまった。
 
 私が予定をきっちり管理しなければ不安なように、彼女も先の日程を決めて自分を縛るのが不安だったのだろう。そういうことが今になって理解できるようになったのだ。
 今なら、いったん断られても、その日は他の予定を入れずに空けておき、彼女の気持ちが落ち着いてイエスの連絡が来るまで待つこともできる。あるいは、先日お誘いして断られたのでその日は他の予定をいれました、と連絡をしておくといいかもしれない。
 
 Fさんは一つ年上のやさしい人だった。
 少し抜けたところはあったけれど、博識だった。
 Fさん、私はあなたと一緒に美味しいご飯を食べたり、スイーツのお店に行ったり、ゆっくりといろいろな話をしたりしたかったんですよ。
 あれからもう何十年もの月日がたった。
 彼女は元気でいるだろうか。

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 子どもの頃、爪を噛む癖があった。
 大人になって、やりたいことややらなければいけないことがいっぱいできてくると、爪を噛んでいる暇はなくなった。けれど、爪切りを使うことに慣れていないので、つい伸び放題になってしまってあるときそれが折れてしまう、というようなことを繰り返している。手入れの仕方もよくわからない。爪の先がギザギザになっていることも多いけれど、あまり気にしないでいた。
 
 最近、仕事でよく行く郵便局の窓口にいる若い女性が、いつも爪にマニュキアを塗っているのを目にして、そんな私も自分の爪に注意を払うようになった。
 彼女の手を見るたびに、爪に目がいって、きれいだな、と思うのだった。
 彼女は身だしなみを整えるのと同じ感覚で爪にも色をつけているようだった。
 窓口でお金をさわる仕事なので、客の視線は彼女の手に注がれる。
 私のほうは素のままで特に整えてもいない爪である。
 武装しているような彼女の爪に対して、自分は丸腰という感じがしたのだった。あっさり負けている。彼女の爪の前に自分の手は出せない気がした。
 
 今までは、夏になって裸足にサンダルを履くようになったときだけ、足の爪にマニュキアを塗っていた。
 これははっきりとした色を選ぶようにしていた。何も塗らなかったら素の自分を外部に晒しているような感覚があったからだ。
 化粧をするのに似ている。そうだ。ネイルケアというのは化粧の一部ということなのだ、と思い至った。
 化粧と同じように精神的な自己防衛の手段なのである。
 それで私も手の指の爪にマニュキアを塗ってみることにした。
 売り場に行くといろんな色が並んでいる。
 透明なものや、肌色に近いものもあったけれど、郵便局の彼女の真似をして、少し落ち着いた色のマットなピンクを買ってみた。
 せっかちなので、1分で乾くという速乾性のにした。
 爪の形を整えて塗ってみると、確かに化粧をしたような印象になった。
 
 それで以前に読んだあるエッセイを思い出した。
 ある女性作家の文章だったと思う。
 普段着ですっぴんで髪などもボサボサのまま、近所に出かけるとき、自分が爪だけはきれいにしていると、それが心の支えになるときがある、というのだった。
 他は何にも気を遣っていないけれど、わたしは爪だけはきちんとしている、と思うと堂々としていられる、というのである。
 そんなものか、とその時は思ったけれど、逆に考えれば、正装してきれいに化粧をしていても、爪を塗っていなければきちんとしていない、ということになる。完璧じゃない。スキがあるということだ。
 
 マニュキアを塗ると、爪が分厚くなった感じがした。硬く、しっかりとした感覚である。
 それで今度は、爪が人間の武器であり道具なのだということを思い出したのだった。確かに、〝爪を研ぐ〟というのは戦闘準備をしているという意味で使われる。
 ただ、家事をしていると、すぐにマニュキアは先のほうからはがれてくる。こうなると見るたびにがっくりする。見苦しい。きちんとしていない自分、雑な自分を思い知らされるようだ。
 透明のトップコートというのを重ね塗りするとはがれにくくなるのだけれど、そうするとなんとなく皮膚呼吸ができていない気がする。
 
 こんなふうにああだこうだと考えた結果、私は気が向いたときだけ爪に色を塗ることにした。もともと気持ちと時間に余裕のあるときしかそういう気持ちにならないのだ。そして塗ったとしたらそれを維持する努力をする。無理なら潔くリムーバーで落とす。
 今まで気にせずやってきたのだし、自己満足感を得るためだけの理由で、好きにしよう、と思った。
 
 それで今現在、私はすっぴんの爪をしている。
 でもその素直過ぎるような無垢な爪を見ていると、このまま世間に晒していいのかとまた心が揺れる。
 堂々巡りが始まるのだった。
 

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