みそっかす気分
「みそっかす」という言葉を先日初めて使った。辞書で調べると、味噌を濾したカス、一人前に扱われない子供、とある。そうそう、そういう感じ、と強く納得した。自分自身のことである。
娘の出産予定日が4月だと告げたときに、ある人から、「私も子供も親戚も四月生まればかり。お嬢さんもぜひ光射す四月に」というメールをいただいた。
ああ、ほんとうに、4月は光射すという表現がふさわしいな、と思った。学校では月齢が高いと言われる。しっかりと、堂々としている感じがする。すっきりと晴れがましい。お釈迦様の誕生日だって4月8日である。
私は4月1日に生まれたのに、親が学校入学が1年遅れると勘違いして(実際は4月2日からが次の学年になる)3月31日に出生届を出したというややこしい経歴を持っている。生まれたときからのこの曖昧などっちつかずのイメージが、自分を表しているようでずっといやだった。
しかしどちらにしても早行きであることに間違いはなく、苦労したでしょう、とよく言われる。
そのたびに、私は「いいえ、それで困ったとか難儀をしたということは一度もないんです」と答えてきた。心底そう思って今まできたのである。一年得をしたという気持ちもあった。
けれど、この年齢になってやっと、自分はやはり、みんなの妹、小さい子、幼い子という扱いを受けてきたのではないか、と考えるようになった。そして私自身も、未熟な存在である、というコンプレックスを常に抱いていたと、今になって自覚するのである。
褒められることは好きだったが、特別に選ばれたり人前に立ったり発言したりすると、私なんかにそんなことができるわけがない、という感情がいつも湧いてきた。堂々としていることにいつも後ろめたさがあった。いつも、一人前に扱ってもらえないかも、という不安があった。心がキュッと縮んでひねくれるのだ。
そういうことに気がついて、
「四月生まれになり損ねた私は、いつまでもみそっかす気分が抜けません」
とメールの返事を送ったのだった。
そういう気分に慣れ過ぎていて、気がつかなかった。
最近やっと開き直ることができるようになってわかったのである。
文章講座で第一声を発する瞬間など、このふたつの感情が自分の内部で争っているのがわかる。私なんかがこんな役をしてもいいのか、いいわけがない、という思いのうねりを平らにならして、はったりでもなんでもやってやる。世の中にはいろんな考えの人がいるのだから、私を否定する人がいてもそれはしょうがない、と平然とした顔で臨むのである。
しかしこのコンプレックスがなかったら、私は私でなかったとも思う。
その点でも開き直って、私はこの一年で一度の特別な日を迎えている。
3月31日。私の誕生日である。
ミソッカスにされていたのは、小学生になる前に、年上のお兄さんやお姉さんたちと遊んでたころです。
クロッカスと同じ響きがあるので、味噌を溶いて残ったカスというイメージはなかった。
ミソッカスは、責任を持たされないので、悔しい気持ちで、
早く一人前になりてえと思ってました。
この春から、小田原城の近くで暮らします。
by 松村透 (2017-04-03 19:17)