ピラティス・レッスン
もうおととしのことになる。
8月の終わりにコロナに感染してから、回復後も私は身体のスッキリ感が得られなくて鬱々とした日々を送っていた。
こんなことは初めてだった。このままでは心身ともにダメになる、という強い危機感を抱いて、なんでもいいからとにかく身体を動かすようなことをしよう、と思ったのだった。
それでネットでいろいろと探してみた。
家から自転車で通える距離で、決まった時間に通うなら夜でないといけない。月謝が高いのも困る。
辿りついたのが、家の近くにある市民プールの2階スタジオでやっているピラティス教室だった。
ピラティスというのはヨガに似た体操、というようなイメージだけしか持っていなかった。
けれど条件に合うのがこれしかなかったのだ。
申し込んで参加してみると、40代後半くらいの女性インストラクターが笑顔で迎えてくれた。
受講生は15人ほどで、高齢の人が半数以上だっただろうか。数人の男性もいた。20年以上も続けているベテランの先生で、生徒たちへの気配りと声がけが丁寧で、指導に信頼を感じた。
とても明るい雰囲気があり、それに救われるような思いがして、私はここでピラティスを続けていくことを決めたのだった。
ピラティスというのはインナーマッスルや体幹を鍛えて健康的な身体を作る、リハビリから始まったエクササイズで、ドイツ人の従軍看護師が戦争で傷を負った兵士の回復のために考案したという。
古代インドの宗教修行を起源とするヨガとは根本的に違うけれど、その動きも取り入れられているそうだった。
先生の言葉に導かれるように身体を動かしていくと、思わぬ筋肉や関節に効き目を感じる。
ここを動かすと、こんなところに効果が出るのか、という新鮮な発見がおもしろかった。
気に入って通っていたのだけれど、4か月後に突然、レッスンの先生が交代することになった。
更年期障害などによる体調不良ということだった。人気のある先生なので、毎日、さまざまな場所で講座があって休みなく働いておられたのだった。事情を聞くと無理を言って引き留めることはできなかった。
そうして新しくO先生がやってきた。
前の先生と年齢こそ同じだけれど、インストラクター経験はゼロの人だった。指導者としてはまったくの初心者なのだった。
不安はあったが私はとにかく続けてみることにした。
レッスン初日、O先生はすごく緊張していた。
指導計画を書いたノートを見ながら進めていくのだけれど、言葉がけがスムーズにできず、水分補給を促すことに気がまわらない。私はハラハラしながらO先生を見ていた。一生懸命さだけがひしひしと伝わってきた。
先生の姿は自分と重なった。
その2年前に、私はNHK文化センターの文章教室の講師を、ベテランの先生の体調不良を理由に引き継いでいた。
その講座の受講生さん達は、前の前の先生の頃から30年以上続けている人が多く、全員が年上で高い文章力と豊富な知識を持っているのだった。すでに6冊のエッセイ集を出版している90代の女性もいた。
私はそのとき二つの文章講座をやっていたけれど、そちらの生徒さん達は一からの始まりで、私は彼らの一作目の作品から目を通しているので、いろんな面で深い理解ができるように感じていた。
しかし長い執筆歴のある人達を、人柄や歴史もわからないまま途中から指導するというのは、私にはとても荷が重いことで、初日の前夜は眠れなかったことを思い出す。
私はO先生を応援したいと思っていたけれど、一方で、貴重な時間とお金を費やすだけの価値がなければ続けることは難しいと考えていた。
あれから1年がたった。O先生は今ではノートを見ることもなく、ニコニコしながらのびのびと指導を続けている。水分補給も決して忘れない。
生徒達は、先生の流れるような言葉に心身を任せて動いていく。
“スワン”や“キャット&カウ”、“マーメイド”といった名前のついた動きも覚えてきた。
ピラティスも含めて体操教室の先生というのは、スパッツとTシャツといった服装が多くて身体のラインがそのままあらわになる。
以前の先生は痩せていたが、O先生は溌溂とした身体をしていて、弾むような勢いが感じられる。
見ていて気持ちがいい。
私は身体のメンテナンスをしに行っているつもりだけれど、先生から元気をもらっているようでもある。
ピアノ、そろばん、書道…。
子どもの頃、親から行かされていた習い事はどれも好きではなかった。
それでもやめるという選択肢はなかった。
ずっと続けていたので、“続け癖”のようなものが身についたように思う。
何かをすぐやめる人を見ると、よくそんなことができるな、と思いつつ、羨ましさも抱くこともある。
それでもこの癖をつけてもらえたことに感謝をしている。
大人になって自分で始めた習い事は、どれも納得しながらということもあって、すべて10年以上続けている。
ピラティスもそうなるのでは、という予感がしている。
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