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泳ぐ。

 自慢じゃないけれど、生まれてから一度も25メートルをクロールで泳げたことがない。
 息継ぎができないので苦しくなると途中で立ち、息を整えてまた泳ぐ。調子がよければ、途中で一度立つだけでプールの端まで辿り着けた。
 小学校から高校を卒業するまで、夏の体育は水泳だった。夏休み中にも学校のプールに行く日があったし、遊園地のプールに友達と行くこともあった。そういうときは浮き輪でぷかぷかと水に浮かぶのを楽しんでいた。
 
 水遊びは好きだけれど、水泳は苦手、だった。そういう自分でずっとやってきた。
 この苦手科目を一生抱えていくつもりだったけれど、思いがけず、昨年末からスイミングスクールに通うことになった。泳げない大人のためのクロール初級クラスである。
 そこで何十年ぶりかで水に浸かった。
「まず、蹴伸びをしてみてください」
と言われて、水に全身を投げ出すように浮いてみた。久しぶりだったのでかなり思い切ってやってみた。子どものときも浮くことはできていたのである。
 浮いている私にコーチが、
「頭が上がっているのでもう少し下げて」
と言った。
 私は、そうか、頭を下げたほうがいいのか、と思って、水中でうつむくように顎を引くと、
「いいですよ。よくなりました」
と言われた。
 次にバタ足をすると、
「膝が曲がっているので、伸ばして、脚を上下に動かしてください」
と言われた。
 私は、そうなのか、膝を伸ばすのか、と気をつけるようにした。
 
 指導は素直に受け入れる。とても真面目な生徒である。
 悪いところを指摘され改善策を示してもらう。それに従えば必ず上手になるのは明白だ。
 そうして私は思ったのだった。 
 小学1年生から高校3年生まで、ずっと水泳の授業があったというのに、こういう指導を受けた記憶がない。頭が上がっているとか膝が曲がっているとかということを先生から言われたことがないのだ。
 もし言われていたら改善していただろう。
 泳ぎ方については先生の見本を見ただけで、理論などは習わなかった。それぞれ自然に泳げるようになるだろう、と教師たちは考えていたのではないか、という気がする。
 よく覚えているのは高校3年のときの水泳の実技テストのことだ。
 ひとりずつ順番にクロールで25メートルを泳ぐのだった。
 プールサイドにいるクラスメイトたちの視線が気になって、私は緊張して胸がうわずっていた。
 いつもよりもっと泳げず、何度も何度も立ち止まった。
 みっともない、情けない姿をみんなの前に晒していることが、いたたまれず、泣きそうになりながら、プールの端になんとか着いたのだった。
 そのとき、体育の女性教師が憐れむような眼で私を見ていたことが忘れられない。
 彼女にとっては、クロールで25メートルを泳ぐなんて簡単なことだったろう。
 彼女なら、もっともっと、いくらでも軽々と泳げただろう。泳げない私が不思議な生き物のように見えたにちがいない。
 泳げない生徒には及第点をつけなければいい。教師にとってはそれだけのこと。
 しかし、40年以上たった今、思い返してみると、そういう結果になるまでに、彼女は私に泳ぎ方の指導をしなければならなかったのではないか、という気がするのだ。
 
 あの体育教師の眼を思い出すたび悔しい気持ちが湧きおこる。
 高3の夏から現在までの間に、私は大人になりいろんな経験を重ねてきた。 
 そして今、自分の働いたお金で月謝を払ってスイミングスクールに通っている。
 スクールでは時間をかけてさまざまな方法で丁寧な泳ぎ方の指導を受けている。
 8回のレッスンがワンクールだけれど、継続し続ければ、何年でも指導を受けることができる。
 方法や形はわかっているのに息継ぎができない、というのは、精神的な要因もあるのかもしれない。
 自分でそんな気がする。
 だからあるときふっと息が自然にできるようになるのではないか、と思っている。
 それまで時間をかけて自分自身を解きほぐしていく作業が必要なのかもしれない。
 それを私はじっくりと時間をかけてやっていくつもりだ。
 適切な指導を受けながら。
 
 ちなみにコーチは19歳の大学生である。
 彼に足首を持ってもらって、はい、また膝が曲がってますよ、と言われると私はあたふたしてプールの中で溺れそうになるのだった。
 

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ルービックキューブ (2)

 ルービックキューブを本棚に置いたまま触れずにいる間に、娘が結婚し、出産した。
 その子が成長して5歳になった頃、キューブをさわりたがったので、手渡して、動かし方を教えてやると、とても興味を示して遊ぶようになった。
 もちろん、ぐちゃぐちゃにするばかりである。
 その子は、乱れたキューブを持ってきて、
「ばあば、もとにもどして」
と、わたしにせがむのだった。
 
 以前はできたけれど、今はできない。とても情けない思いがした。
 6面をぴったり揃えられたら、この子はどんなに喜ぶだろう、という気持ちから、わたしは再びキューブに挑戦することにしたのだった。
 それで以前のようにYouTubeの映像を見てみたけれど、今度はなかなかうまくできなかった。
 かつての少年の映像を見つけることもできなかった。
 それで本腰を入れて、メモに頼らずに覚えられる方法がないかと探してみた。
 ルービックキューブの揃え方についてはたくさんの種類の投稿があるのだった。
 そのなかから、規則的な動作を繰り返すことで完成させられるやり方をみつけて、集中してやってみた。
 数学教師のような中年男性が冷静に説明してくれる映像だった。
 
 そうしてじっくりと時間をかけて、わたしはルービックキューブの解き方(の1種類)をマスターしたのだった。
 考案者であるハンガリーの建築家エルノー・ルービックの著作も読んだ。
 彼はキューブのことを〝わたしの息子〟と呼んでいる。
 いろいろとキューブのことを調べてみてたくさんのことを知った。
 数年前にわたしが百円ショップで買ったキューブは正式なものではなく、今はもう売られていないこと。
 競技用に使われているものは、動くスピードを自分で調整できること。
 わたしは今回、正式なルービックキューブを正式な価格で購入した。
 このさわり心地は百均の製品とよく似ていた。
 ネットで中国製のものも買ってみた。安くはなかった。これはとても動きが滑らかだった。
 キューブの世界記録は4秒台で、少しずつ更新されている。
 わたしは速さにはあまり興味は感じない。
 キューブを動かしている時間が楽しいのだった。
 法則に則って動かせば、必ず最後は6面が整う。
 ラストの一瞬前までキューブは乱れている。
 1個のキューブが正しい位置にあっても全体のためにいったん動かす必要がある。
 ほんとに大丈夫なんだろうか、とドキドキしながら動かすのだけれど、やはり最後はすべてのキューブがあるべき位置に収まる。達成感と快感がある。
 
 手のひらの上の物体と向き合いながら、それと協力して〝完全無欠〟へと進んでいく。
 それは〝自然にもどる〟というようなとてもナチュラルでしっくりとくる感覚だ。
 会話するというまではいかないけれど、キューブに感情を注ぎ込むようにわたしは集中する。
 
 3次元パズルの奥深さを理解しているわけではなく、知的な探求の部分を人任せにしていることはわかっている。自分で解くのとは違う種類の感動なんだと思う。
 今度こそ本棚に放置せず、いつも手に取りながら、この感覚を忘れないようにしようと心に決めている。
 

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ルービックキューブ(1)

 ルービックキューブを買ったのは突然のことだった。

 六つの面を持つ立方体で、辺の長さは5.5センチ。両手にすっぽりと収まるサイズで、一面が九個の正方形に分割されている。緑、赤、青、黄、白、オレンジの色がついていて、面ごとに回転させて色を揃えていくという立体パズルだ。エルノー・ルービックというハンガリーの建築家が考案したという。買い物帰りに立ち寄った百円均一の店でみつけて、「もはや百円なのね」と驚きながら手に取ったのだった。

 高校生の頃、クラスメイトの男子が学校に持って来て、その周りに人だかりができていたのを覚えている。わたしはその時に初めてルービックキューブという物を見た。当時は高価だったはず。遠巻きに眺めながら、気になってはいたけれど、自分には縁のない物、だと思っていた。叶わないとわかっている恋の相手のように。ただ、今まで五十年以上生きてきたなかで、わたしはそれを数回手にしたことがある。何かの順番が回ってきたように、それはめぐりめぐってこの手のひらの上にやってきた。そのたびに、ドキドキしながら触るのだけれど、毎回それを動かせば動かすほど、頭が深い森で迷子になったような、どうしようもない絶望感に襲われた。

 これほど何の展望もない動作が他にあっただろうか。わたしは見通しなくそれを動かしてぐちゃぐちゃにすることしかできなかった。まったくなんにもわからないのだ。なんの道しるべもない。六面の色をピッタリ揃えるなんて、そんな神業のようなこと、できるわけがない、自分には絶対に無理だという確信だけがあった。おそらく数学的で論理的で先を読むスキの無い能力なんかが必要なんじゃないか、と思う。そんな能力はわたしの中のどこにもない。自分のことなのでよく知っている。脳がそういう方向に動かないし、動かそうとしたこともない。

 この世界にはルービックキューブができる人とできない人がいて、わたしはできないほうの集合体にいるのだと思っていた。なのにその前で立ち止まってしまったのは、百円だし別に無駄になってもいいからちょっと触ってみたい、と思ったのと、少し前にテレビ番組の特技披露コーナーで、お笑い芸人の男性がルービックキューブの六面を揃えるところを見たのが大きな理由だった。彼は誰かが色をばらばらにしたルービックキューブを見た瞬間に素早く手を動かして数十秒でそれを完成させたのだった。わたしは目を見張ってしまった。まるで魔法のように、とても鮮やかだったのだ。

 じっくり考える、というふうではなかった。法則に則ってただ手を動かしているだけのように見えた。確信を持って動かしている。きっと何かコツがあるのだろう、と思った。彼はそれを知っていて、おそらく何度も繰り返して自然に手が動くくらいにまでその動作を身につけたのだろう。彼が知っていて、わたしが知らないことがある。それならもしわたしがそれを知ったら、わたしにもこのパズルが解けるのではないか、とそのときに思ったのだった。それなら一度でいいからやってみたい。

 わたしは売り場に立ったままスマホを開いて検索画面に「ルービックキューブ」と入力してみた。すると、「ルービックキューブの揃え方」という画像が山のように投稿されているのがわかった。〝誰でもできる〟と書いてある。〝小学生でもすぐできる〟〝超初心者向け〟〝簡単に1分を切れる〟などという言葉が並んでいる。そうなんだ、そういうものなんだ、そういう世の中なんだ、と思った。〝誰でも〟というのは、〝わたしでも〟ということのはず。そう心で大きく頷いて、わたしはルービックキューブを買うことに決めたのだった。

 家に帰って早速YouTubeを見てみた。「ルービックキューブというのは覚え芸なんです」と言う少年の画像を見つけて、とにかく彼の言う通りにやってみた。「左・上・右・下・上段を右に回転させて・右・上・左・下」というふうに。いくつもの動作を言われるままに繰り返した。そうすると、最後に本当に六面を揃えることができたのだった。あっけない完成だったけれど、すべてのキューブがあるべき場所に収まっている姿というのは至極美しいもので、わたしは〝やったわ〟と声に出して言っていた。

 彼の言葉はおまじないのようだった。意味も意図も理解できなかった。でもそれでも言われた通りに動かすとキューブが完成するのだった。わたしは彼の言葉を紙に書き写して、自分にだけわかるメモを作った。そしてそれを見ながら毎日ルービックキューブを完成させた。

 これはストレス解消に効果があったと思う。完成させるたびに気持ちがスッとしたのはまちがいなかった。ただ、彼のやり方を覚えるのは難しかった。覚え込んでそらでやることはできず、わたしはいつもメモを見ながらやっていたのだった。

 メモはいつもそばに置いていたけれど、次第に、引出しにしまうようになり、時折、思い出したようにやるだけになってしまった。常に手にとれる場所に置いていたキューブも本棚になおすようになった。わたしはたまにしかルービックキューブをやらないようになってしまったのだった。

 そうしているうちに、メモを見ても意味がわからなくなった。わたしはルービックキューブができなくなってしまった。そのときはそれでもいいか、と思った。そのうちメモも捨ててしまった。

 興味がなくなったのだった。

 コロナが流行するずっと前のことである。

 そしてこの話には続きがある。

 


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木工のOさん

 古い街並みが残る、与謝野晶子ゆかりの大阪府堺市綾ノ町〝ななまち〟では、3月から4月初めまでそれぞれの旧家のおひな様が展示される。
 〝ひなめぐり〟として知る人ぞ知るウオーキングコースになっているのだが、この期間中、土日と祝日に、私は手作りの仲間と一緒に、その休憩所にあたる場所で自作のトールペイント作品を展示販売している。これはもう10年以上続いていて、私にとって春先の大きなイベントとなっている。
 以前は、和布細工やドライフラワーを作る人たちも一緒だったが、今は、染色、トンボ玉とクレージーキルト、木工、そして私の4人がメンバーである。
 毎回2人以上が店番をするので、いつも誰かと一緒にお弁当を食べたり、お茶を飲んで話しながら時間を過ごすことになる。お客さんが集中すると忙しいけれど、それ以外は、街道沿いの日当たりの良い館内でゆったりと時間を過ごしている。
 
 その仲間の一人である木工のOさんは、80歳を過ぎているが、とても溌剌とした人で、毎回、大阪南部の富田林から1時間近くかけて車でやってくる。
 数年前に連れ合いを亡くして一人暮らしをしている。彼は畑で育てた野菜を料理してお弁当を作って持ってくるのだった。
 定年退職後に自宅のガレージで作り始めた木工作品を、各地の手作り展で販売するようになり、今では作品がふるさと納税の返礼品に選ばれるまでになって、一年中忙しくしている。Oさんは、イベントへの出展、というのに慣れている、というのかコツを掴んでいる様子である。私達以外のいくつかのグループにも属しているのは、人付き合いが上手ということもあるだろう。
 技術があるだけでは、誰でも彼のようにうまくやれるとは限らないと思う。
 Oさんはお湯の入った水筒と、紙コップ、インスタントの味噌汁や珈琲をいつも準備していて、私にも分けてくれる。私はコンビニでおにぎりやパンを買っていく。お味噌汁用の割り箸がない、と言うと、それもどこかから取り出して、ほら、と私の前に置いてくれるのだ。
 
 Oさんが作っているものは木製の額や、スマホスタンド、マスクケース、まな板、ボタン、箸置きやおもちゃなど多岐にわたっている。仕上げの美しさとスッキリとしたデザインが特徴だ。なかでも一番の売れ筋商品は檜のお箸である。
 子ども、女性、男性用、取り箸と4種類の長さがあり、どれも先が細くてとても使いやすいのだ。私も毎日使っている。
 Oさんはいつも展示会場の片隅でこのお箸を削る作業をしており、お客さんが来ると愛想良く話しかけて、削りたてのお箸の匂いを嗅いでもらうのである。
 私達が〝匂い嗅がし作戦〟と呼んでいるこの作戦の効果は絶大で、檜の良い匂いにつられてほとんどの人がOさんのお箸を購入するのだった。
 
 私は年賀状のやり取りをしている古い友人に作品展の案内ハガキを送ったり、知り合いに声をかけて会場に来てもらう。お茶とお菓子のサービスがあるので声をかけやすく、めったに会えない人に会える得がたい機会になっている。
 そういう人達は、来たからには何かひとつくらいは、と義理と好意で私が描いたものを買ってくれる。まったく知らない人にお箸が売れるOさんとは違う。ほぼご縁に頼っている私はだから1年に1回しか出展していないのだ。(作品作りに時間がとれない、ということもある。一応)
 
 ”トールペイント”というのは木製品などにアクリル絵の具で絵を描くもので、ヨーロッパで農機具に絵をつけたのが始まりだと言われている。
 玄関先に架けるウエルカムボードや、ティッシュペーパーボックス、レターラック、小物入れなどが主な材料となる。他に植木鉢やエコバッグに描いたりもする。
 正式な素材として販売されている物はどうしても高価になるので、できるだけ材料を安く手に入れることが重要で、私は日頃からそういう物を探す癖がついている。
 私の売れ筋商品はマグネット(冷蔵庫の扉にメモなどを付けるのに使う)で、これはひとつ300円で売っている。昨年までは安価な材料が手に入っていたが、今年はそれが売っておらず、他でも見つけることができなかった。
 そんな話をしていたら、Oさんが直径4センチくらいの丸い木を輪切りにしてたくさん持って来てくれた。
 私はそれにボンドでマグネットを貼り付け、薄いグリーンに塗って、ミモザの花や小鳥の絵を描いて仕上げた。
 同じくらいの大きさでハート型の木にフックを付けた〝輪ゴムかけ〟も欲しい、と言うと、これはかなりの工夫をしてくれたようだったが、またもや作って持って来てくれた。
 その他に、私は自宅の表札(郵便受けに貼り付けているので微妙な大きさなのだ)用の板など、自分が欲しかったサイズの板を数枚切ってもらいたいと頼んだ。
 Oさんは「よっしゃ」と引き受けてくれて、翌日には私の望み通りのものを持って来てくれた。
 私は、代金を、
「請求してくださいね」
とOさんに言っていた。最終日にまとめて払うつもりでいたのだった。
 けれど、もしかしたら、お金を受け取ってくれないのではないか、という気がしていたので、一応、小瓶のお酒とそのお供になるような食べ物を準備しておいた。千円程度のものである。
 そして最終日に、
「いくら払ったらいいですか?」
と聞いてみると、Oさんは、
「いくらでもええわ」
と言う。
「思うだけ払ってくれたらええわ」
と言うばかりである。
 それで私は封筒に3千円を入れて、お酒と一緒に渡した。
 そのとき、Oさんと目が合った。
 ニコニコと笑っていたOさんが一瞬、真顔になったように見えた。
 けれど彼の表情から、気持ちを読み取ることはできなかった。
 その後で、強い後悔が私の胸に湧き上がってきた。
 Oさんの好意と、技術に対して、自分が金額をつけたことに対する後悔だった。 取り返しのつかないことをしてしまったのではないか、という思いが暗雲のように垂れ込めてきて、心が真っ暗になった。
 こういう場合、お互いが多すぎると思えるほどの金額を渡す、というのが正解ではなかったか、という気がした。
 損得などどうでもよいのだった。感謝の気持ちを表現しなければいけなかったのに。
 
 最終日の閉店後は搬出作業と精算でバタバタとする。
 代金のことをもう一度切り出すのも気がひけた。
 忙しく動き回っている間にお別れのときはやってきた。
 次にOさんに会えるのは一年後である。
 
 私の心はまだもやもやとしているけれど。
 Oさん、どうか元気で。
 また会えますよう。
 そう祈るしかない。
 

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新しいトースター

 パンが好きで、なかでも特に食パンを焼いてバターを塗って食べるのが大好きである。
 今のトースターは10年以上使っており、昨年から買い換えを考えはじめていた。食パンに焼きムラができるようになっていたからだった。そのトースターは、置き場所のサイズに合わせて買ったものだ。置く予定の場所が狭くて、ピッタリ合うサイズのトースターはお店にひとつしか無かった。他に選択肢がない状態だったことを覚えている。
 今回の買い換え後も10年以上は使いたい。そうなると、これが自分がしっかりと選んで買う最後のトースターになるかもしれない、という思いがある。
 それで、”食パンが一番美味しく焼ける”という評判のB社のトースターを買いたいと私は私は考えていた。トースターとしてはかなり高価なものだったが、悩んだ末に、やっぱりそれを買おうと決めた。
 サイズが大きくて、今の場所には置けない。
 それを最後まで悩んでいたが、洗濯機の上の棚を整理して置くことにした。
 これは娘からの提案だった。私の家は狭いので台所に洗濯機置き場があるのだった。
 その上の棚はタオル置き場になっている。それを移動して新しいトースターの場所を作ることにしたのだった。
 
 私はわくわくしていた。ちょうど電子レンジと炊飯器(どちらも20年近く使用)を買い換えたところだったので電気屋さんのポイントが貯まっていた。
 思い切って高価なトースターを買うことを決めた自分にとても気持ちが高揚していたのだった。
 
 ところが、お風呂の換気扇が壊れて交換が必要になった。思えばこれも30年近く使っていて、その間一度も掃除をしたことがなかった。
 知り合いの電気工事屋のMさんに交換を頼み、それを待っている間に洗濯機が壊れた。これもMさんに頼んで交換してもらった。
 それと同時に、今度はアコーディオンカーテンの金具がはずれた。そういえばこのアコーディオンカーテンもかなり古い。40年以上は使っている。Mさんの知り合いの工務店にお願いしてすべて取り替えることになった。
 
 職人さんに下見に来てもらい、製品を選び、見積もりを取り、日にちを合わせる。すべてにそういう段取りがあり、私はそのひとつずつに対処していった。
 周囲の物が新しくなっていくのはうれしいことで、自分も新しくなっていくようだ、と人には言っていたけれど、気力がどんどん消耗していく感覚もあった。
 それらがやっと終わって一息ついていたら、食器棚の扉がはずれた。
 見ると蝶番がちぎれるように割れていた。これは結婚の時に持ってきたもので、経年劣化によるものに間違いなかった。
 私はドライバーで壊れた金具をはずし、それを持って自転車でホームセンターに行き同じ物を買った。製品番号を確認し、念のため店員さんにも確認した。
 そして家にもどってそれを自分で取り替えたのだった。
 
 何もかもが壊れていく。そういうシーズンなのだろう。
 誰にでもそういう時期があるという。
 周りを見回すと、他にも長く使っている物がある。
 何かあれば、また対処していくことになるんだろうな、と思う。
 
 そして私はいまだ新しいトースターにはたどりつけないままである。
 

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