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忘れていくこと

 今年の春、夫が11年間の単身赴任を終えて家に帰ってきた。
 生活のリズムが変わり、久しぶりの共同生活に慣れないことも多いけれど、ひとつだけ、夫が帰ってきてとても良かったと実感していることがある。
 それは、電動自転車で1時間かけて通っていた私の実家の畑まで、車に乗せていってもらえるようになったことだ。しかも夫は畑仕事を手伝ってくれるので、作業量が半分になった。気持ち的にも身体的にも私はすごく楽になったのだ。
 このことを話すと、みんな、〝良かったですね~〟と言ってくれる。
 
 以前はとにかく天気を気にしていた。冬は雨を。夏は、それに加えて日照りを。
 夏は早朝に家を出ても、畑に着く頃には気温は高く、日射しも強くなっている。草の勢いは凄い。それを抜いているとすぐに汗だくになる。休憩をとっていてもすぐにバテてしまうが、帰りに1時間、自転車を漕ぐパワーも残しておかないといけない。
 それで作業は1時間半くらいで終了することにして、その代わり毎週行くようにしていた。
 私はいつも畑のことを考えていた。雨上がりの曇り空の日が、仕事のない日と重なるのを心待ちにしていた。リュックには雨具とスポーツドリンクを必ず入れていた。
 昨年、父が亡くなると、私はこの畑を相続した。畑は私の畑になった。こうなるとなおさら自分に近い存在になった。
 
 今は2週間に1回くらいがちょうどいいペースで、しかも往復は車に乗っているだけでいい。帰りにショッピングセンターに寄って昼ご飯を食べるのも楽しみだ。重い物を買っても持ち帰るのを気にしなくてもいい。
 車の助手席に座って、私は窓から側道を走る自転車の人たちを眺めている。特に朝、畑に向かうとき、大和川に架かる橋を渡っていると、自転車を漕いでいる自分の姿をリアルに思い浮かべることがある。
 川の流れる様子、川岸の草にも見覚えがある。視線を下げれば、野球をしている少年達の姿が見えるはずだ。
 風を受ける車体。遠い空に浮かぶ雲。そういう感覚、記憶が一気に蘇ってくる。
 橋を下ったらまっすぐに進んで、次の橋を渡る手前で細い路地を左折しなければならない。その小さな橋の側道は階段になっていて自転車では通れないからだ。
 
 左折してからの道順も頭に入っている。
 古い商店街のある入り組んだ道を進み、旧長尾街道に出る。
 車で行くときは通らない道だ。でも前にも書いたように、これはとても好きな道だ。
 道独自の匂いがする。電動自転車を快調に漕いで、踏切を越えて線路沿いに走る。
 しばらく行って南に曲がると、御陵(古墳)が見える。豊かな水を湛えたお堀に沿って走る。水面に緑が映り、白鷺が美しい姿で佇んでいる。
 ここまで来ると、生まれ育った土地に帰ってきた、という思いがする。
 身体は確かにしんどいけれど、自転車でしか受け取れない感覚、というのがあった。
 私ひとりにしかわからない感覚である。でも誰にとってもこんな自分ひとりにしかわからない感覚の記憶はあるんじゃないかという気がする。
 
 この御陵の近くには、父の妹である八七歳の叔母が住んでいる。畑の帰りに寄ると、叔母さんは私のために昼ご飯を作ってくれた。
 けれど車で行くようになってからは叔母の家に理由もなく寄ることはない。
 私はもう自転車であの道を走ることはないという気がする。
 数年もたてば体力的にもまったく無理になるだろう。
 今はまだ体内に色濃く残っている感覚を、だんだんと私は忘れていくのだろうという気がする。
 おそらく確実に。そしてまた新しい感覚を手に入れて、それに馴染んでいく。
 
 惜しい、寂しい、かなしい、せつない、感傷、ノスタルジック、どの言葉も違う。
 しいて言えば、あきらめ、しょうがない、に近い。
 ”暮らしていく、ってそういうことやん” という感じだろうか。
 
 すごく微妙なことだけれど、どこかこことは違う世界ではとてもたいせつにされている感覚かもしれない、とも思う。

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